映画「エリック・クラプトン~12小節の人生~」ネタバレあらすじ結末と感想

エリック・クラプトン~12小節の人生~の紹介:2017年イギリス映画。世界三大ギタリストの一人であり、ギターの神様と称されるイギリス出身のギタリスト、エリック・クラプトンの波乱に満ちた壮絶な半生を追ったドキュメンタリーです。18度のグラミー賞受賞、3度のロックの殿堂入り(クリーム、ヤードバーズ、ソロ)など輝かしい軌跡を誇る一方で母親に拒絶された少年時代の孤独、仲間との決別や死、親友だった元ビートルスのジョージ・ハリスンの妻への激しい恋慕、ドラッグやアルコール漬けの日々、愛する息子の死などを貴重なアーカイブ映像と共にクラプトン自ら振り返っていきます。
監督:リリ・フィニー・ザナック 出演:エリック・クラプトン、B・B・キング、ジョージ・ハリスン、ジミ・ヘンドリックス、パティ・ボイド、ベン・パーマー、ロジャー・ウォーターズ、ジョン・メイオール、マディ・ウォーターズ、アレサ・フランクリン、オールマン・ブラザーズ・バンド、ヤードバーズ、クリーム、ブラインド・フェイス、デレク&ザ・ドミノス、ザ・ローリング・ストーンズ、ザ・ビートルズ、ボブ・ディランほか

映画「エリック・クラプトン~12小節の人生~」解説

この解説記事には映画「エリック・クラプトン~12小節の人生~」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。

2015年5月。世界的ギタリストのエリック・クラプトンは同月に亡くなったブルースギタリストのB・B・キングへの追悼と感謝の言葉を述べました。クラプトンにとってキングは若き日に影響を受けたアーティストのひとりでした。

1945年にイギリス・サリー州リプリーにて生まれたクラプトンは両親の愛情をたっぷり受けて育ちました。明るく活発だったクラプトンは学校に馴染めず、何の理由もなく変わり者扱いされたことを機にひとりきりで過ごすようになりました。

絵を描くことが好きだったクラプトンはある日、自らの出生の秘密を知ってしまいました。クラプトンが姉だと思っていた女性は実はクラプトンの実の母であり、両親と思っていたのは祖父母夫妻でした。奔放でお騒がせだったクラプトンの実母は駐留中だったカナダ兵と行きずりの恋に落ち、10代で未婚のままクラプトンを身籠ったのです。実母はクラプトンが生まれてすぐにカナダへ去ってしまい、それ以降クラプトンは祖父母のもとで育てられたのです。実の母に捨てられたという事実は、クラプトンの心の傷として残りました。

祖父母を含め誰も信用しなくなったクラプトンの心の拠り所となったのは、子供向けラジオ番組「マックおじさん」で流れる音楽の数々でした。やがてクラプトンはレコードを買い始め、初めてのギターとなるアコースティックギターを買ってもらいました。クラプトンは昼夜問わずギターの練習に励み、自らの心の傷を癒すかのようにのめり込んでいきました。

15歳でキングストン美術学校に進学したクラプトンは、当時イギリスではまだマイナーな音楽だったブルースに深く傾倒していきました。クラプトンはB・B・キングやマディ・ウォーターズ、チャック・ベリーなどのレコードを買い漁り、ロンドンの名門ライブハウス「マーキー・クラブ」に足を運んでは当時まだ駆け出しだったザ・ローリング・ストーンズと親交を持ちました。

1963年、クラプトンはルースターズに17歳で加入しました。クラプトンのギターテクニックはこの頃から類まれなる才能の鱗片を見せていました。ルースターズ加入から8ヶ月後、クラプトンはリードギタリストが脱退したヤードバーズに後任として加入、プロへの第一歩を歩き始めました。やがてクラプトンの名声はヤードバーズの人気と共に高まっていき、1964年にヤードバーズがザ・ビートルズのクリスマスショーにゲスト出演した際にクラプトンはビートルズのギタリスト、ジョージ・ハリスンの特捜的なギタースタイルに惚れ込み、ハリスンと意気投合しました。やがてヤードバーズはバンド初のヒット曲となった「フォー・ユア・ラブ」をリリースしましたが、ブルース志向のクラプトンはポップ化していくヤードバーズに見切りをつけて脱退してしまいました。

音楽性よりも金稼ぎを優先する音楽業界に嫌気が差してしまったクラプトンはルースターズ時代からの盟友ベン・パーマーに今後の身の振りなどについて相談していたところ、ジョン・メイオールに誘われて1965年にジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに加入しました。クラプトンはメイオールの家に居候し、過密日程のライブツアーなどを通じて更にギターの腕を磨いていきました。ボブ・ディランはクラプトンのギタースタイルを高く評価しました。この頃からクラプトンはビスミッラー・カーンなどのインド音楽にも傾倒していき、ハーモニカ奏者のリトル・ウォーターのハーモニカ音をアンプで増幅するスタイルにも影響を受けました。

やがてクラプトンはギブソン社のギター・レスポールとマーシャル社のギターアンプを組み合わせることにより自らの理想とするギターサウンドを得ました。人々はクラプトンを「Clapton is God」と称えましたが、クラプトンは名声よりもあくまでも音楽へのこだわりを大事にしていました。

ピンク・フロイドのギタリスト、ロジャー・ウォーターズは、クラプトン登場前のイギリスのギタリストはみなシンプルでテクニックもなかったので、クラプトンのあの音は革命的だったと振り返りました。

1966年。クラプトンはザ・ブルースブレイカーズを脱退し、ドラムスのジンジャー・ベイカーやベース兼ボーカルのジャック・ブルースと共に新バンド・クリームを結成しました。クラプトンが目指したのはブルースにジャズとロックを融合させた全く新しい音楽でした。この頃、クラプトンはライブで共演したジミ・ヘンドリックスと意気投合し、友情を育んでいきました。

1967年、クリームはレコーディングのためアメリカ・ニューヨークを訪れました。パーマーはクリームのマネージャーになっていました。この頃にはブルースはイギリスではすっかりメジャーなジャンルとなっていましたが、クラプトンは黒人音楽であるブルースが白人に完全に馴染むまでは人種差別を乗り越えなければならず時間がかかるだろうとの見解を示しました。

クリームが使ったスタジオはレイ・チャールズやアレサ・フランクリンなど錚々たる大物たちが使用しており、クラプトンはフランクリンや様々なギタリストと共にセッションも行いました。

クラプトンはこの頃からフランス人モデルのシャーロット・マーティンと交際していました。シャーロットは元々ビートルズのファンで、ビートルズが行った世界初の衛星中継放送にも参加していました。

クリームはイギリスのみならずアメリカでも人気を博しました。B・B・キングはニューヨークでライブをしていたクリームを訪ね、クラプトンとジャム・セッションに興じました。アメリカの白人たちはクリームを通じて黒人音楽であるブルースを聴き入れるようになっていきました。

やがてクリームはビートルズやストーンズと肩を並べるトップバンドにのし上がっていきました。しかしこの頃からシャーロットはクリームの多忙なスケジュールに疲れ果て、ジンジャーとジャックは対立するようになっていきました。そして1968年、クリームは解散を発表しました。

クリーム解散後のクラプトンはギターとばかり向き合い、シャーロットとの関係にもヒビが入りつつありました。クラプトンはよくハリスンとその妻パティ・ボイドのもとを訪れることが多くなっていました。ビートルズはアビイ・ロードスタジオで製作中の「ホワイト・アルバム」にクラプトンをゲストに招きました。

この頃からイギリス警察は麻薬絡みで次々と大物ミュージシャンを検挙していました。中には警察によるでっち上げもあり、身の危険を感じたクラプトンは故郷に近いサリー州ハートウッド・エッジに引っ越しました。ここはハリスンの家とも近く、クラプトンがハリスンのもとを訪れる頻度は増えていきました。クラプトンとシャーロットはハリスンやパティとよく4人で遊んでいましたが、やがてクラプトンは次第にパティに惹かれるようになっていき、人妻だとわかっていても想いを募らせていきました―――。

―――この15年前、クラプトンの実母が海外から一時的に帰省してきたことがありました。実母には既に子供が二人いました。クラプトンは思い切って実母に「僕のママになってくれるの?」と質問しましたが、返ってきた応えは「いいえ」でした。クラプトンは母からの拒絶に深く絶望しました―――。

―――この15年後の1969年、クラプトンは新バンドのブラインド・フェイスを結成、ロンドンのハイド・パークで大規模ライブを開きました。クラプトンはシャーロットと破局し、新たにアリス・オームズビー・ゴアとの交際を始めましたが、パティへの想いは募るばかりでした。

同年10月。クラプトンはパティにラブレターを書きました。クラプトンはパティに電話を入れ、あの手紙は正直な気持ちだということを伝えました。

ブラインド・フェイスはすぐに解散し、クラプトンは友人であるキーボーディストのボビー・ウィットロックと一緒に遊んだり、一緒にチャリティイベントに出演したりしていました。クラプトンはパティへのアプローチを続け、冷たく素っ気ないハリスンの態度に嫌気が差していたパティは次第にクラプトンと密会を重ねるようになっていきました。

そんなある日、クラプトンはハリスンから初のソロアルバムへの参加を打診されました。クラプトンは同じくハリスンのアルバムに参加したミュージシャンたちと共に新バンドのデレク&ザ・ドミノスを結成しました。しかし、この頃からクラプトンは次第にドラッグに溺れていくようになっていきました。

ある時、クラプトンは誰かからもらったペルシャの本「レイラとマジュヌーン」の悲恋話に自らを重ね合わせました。クラプトンはパティに「駆け落ちしよう」と愛を伝え、遂に関係を持ってしまいました。その後、クラプトンはポール・マッカートニーやミック・ジャガーらが出席したパーティーに招待され、パティは一人で現れました。クラプトンとパティが二人きりになった時に突然ハリスンが現れ、クラプトンはハリスンにパティを愛していることを正直に打ち明けました。パティはハリスンが浮気をしていることを知っていましたが、結局ハリスンのもとに戻るという選択をしました。それでもクラプトンはパティへの想いを捨てきれず、音楽にぶつけていました。

1970年8月。クラプトンはアメリカ・フロリダ州マイアミでデレク&ザ・ドミノスのアルバム製作を開始しました。新たな方向性を模索していたクラプトンはオールマン・ブラザーズ・バンドのギタリスト、デュアン・オールマンのギタープレイに衝撃を受け、早速セッションに誘い、そのままレコーディングに参加してもらうことになりました。こうして完成したのがクラプトンの代表曲のひとつ「いとしのレイラ」でした。

イギリスに帰国したクラプトンは、完成したアルバム「いとしのレイラ」をパティに聴かせました。収録曲は全てパティに捧げる曲でしたが、クラプトンは彼女を取り戻すことはできませんでした。その3日後、クラプトンはジミ・ヘンドリックスが薬物中毒で亡くなったとの報道を知り、強いショックを受けました。更に追い打ちをかけるように、「いとしのレイラ」はアメリカでは売れず、アメリカツアー中に祖父が亡くなったこともあり、精神的に追いつめられ、引退や自殺まで考えるようになったクラプトンは更にドラッグへの依存を深めていきました。

デレク&ザ・ドミノスは解散し、クラプトンは恋人アリスと共に自宅に引き籠ってドラッグに耽る自堕落な日々を過ごしていました。そして数年後の1974年、クラプトンはようやく音楽活動を再開しました。クラプトンはドラッグ依存から立ち直っていましたが、今度はアルコール依存に陥っていました。クラプトンは泥酔したままスタージに上がり、ファンから罵声を浴びました。時には予定よりも早くライブを切り上げることもありました―――。

―――この13年前。クラプトンはようやく実母との関係を修復しつつありました。ところが、実母の結婚相手(ドイツ駐留のカナダ兵)のいるドイツを訪れたクラプトンは、実母から長く伸ばしていた髪を切るよう強要されました。大切なギターも異父弟に壊されてしまい、自分という人格を破壊された気がしたクラプトンはこの日以来誰も信用しなくなりました―――。

―――パティはハリスンと離婚する決意を固め、ツアー中のクラプトンを訪ねて久しぶりの再会を果たしました。ようやくパティとの交際を始めたクラプトンでしたが精神不安定ぶりとアルコール依存は変わらず、酒を飲んではパティを不安にさせることが度々ありました。クラプトンは相変わらずステージ上で酒を飲み、ファンから「過去の栄光にしがみついてるんじゃないよ」と言われてブチ切れるなど評判は地に落ちていました。

2年後、クラプトンのアルコール依存は更に悪化し、医者から禁酒しなければ死ぬとまで宣告されました。パティとの関係も次第に悪化していきました。そしてクラプトンは潰瘍で入院し、音楽活動もドクターストップがかかってしまいました。しかし、それでもクラプトンの音楽への情熱は完全に尽きることはありませんでした。

ある時、クラプトンはレコーディング中にスタジオのマネージャーだったイヴォンヌと恋に落ち、互いに既婚者であるにも関わらずイヴォンヌを妊娠させてしまいました。やがてイヴォンヌはクラプトンの娘を出産しましたが、クラプトンには娘を支える余裕はありませんでした。クラプトンはドラッグやアルコール依存の治療を受けていましたが、完全に立ち直れずにいました。

やがてクラプトンはツアー先のイタリア・ミラノでモデルのロリ・デル・サントと恋に落ちました。その後、クラプトンはロリとの関係を清算してパティのもとに戻る決心をしましたが、ロリは既にクラプトンの子を身籠っていました。

1986年8月、クラプトンとロリの間に息子コナーが誕生しました。子育てを通じ、コナーのためにも立ち直る決心をしたクラプトンは翌1987年にアメリカ・ミネソタの医療センターでリハビリを開始しました。しかし、1991年3月、クラプトン、ロリ、コナーがニューヨークに滞在していた時、コナーはマンハッタンのアパートの53階から転落して亡くなってしまいました。

打ちのめされ、全てに絶望したクラプトンはイギリスの自宅に戻りました。コナーの死の翌月、コナーが生前に滞在先のミラノからクラプトン宛てに送っていた手紙が届いていました。「大好き。また会いたい」―――息子の手紙を読んだクラプトンは今度こそ立ち直る決意を固め、これからの人生はコナーのことを思いながら生きていく決心をしました。

クラプトンはコナーに捧げる曲「ティアーズ・イン・ヘヴン」を発表しました。「僕は音楽に救われた」―――長年の痛みから解き放たれたクラプトン。「ティアーズ・イン・ヘヴン」はグラミー賞で主要タイトルを総なめするなど高く評価されました。

3年後。クラプトンはイヴォンヌとの間の娘ルースとようやく親子関係を築くことができました。2011年、ルースの結婚式に出席したクラプトンは、ようやく人との信頼関係を築けるようになったと語りました。

クラプトンは100本にわたる自らのギターコレクションを売却し、アンティグアに治療費を払えないドラッグやアルコール依存症の人のための治療施設「クロスロード・センター」を設立しました。「音楽は僕を裏切らず、良い人生を送らせてくれた。でもセンターで人々を救うことは音楽に勝るとも劣らない価値がある」とクラプトンは語ります。長年の友人パーマーは「クラプトンは自らどん底に落ち、自力で這い上がった。彼は強い人間だ」と評しました。

クラプトンは現在の妻であるマリアと出会い、3人の娘をもうけました。家族を得たクラプトンは「色んな過ちを犯してきたけど、その結果ここにいる。最高の人生じゃないかな」と語りました。

映画のラストはクラプトンがB・B・キングのライブにゲスト出演した時の映像で幕を閉じます。キングは「エリック・クラプトンは俺が出会ってきた人間の中で最も良い奴だ」とファンに語りかけました。

以上、映画「エリック・クラプトン~12小節の人生~」のあらすじと結末でした。

Leave a Comment