映画「銀河鉄道の父」ネタバレあらすじ結末と感想

銀河鉄道の父の紹介:2023年日本映画。第158回直木賞を受賞した門井慶喜の同名長編小説を映画化した歴史ドラマです。伝説の文学者・宮沢賢治の没後90年目にあたる2023年に公開された本作は賢治の父・宮沢政次郎の目を通して、息子をはじめとする家族の姿を描いた作品です。
監督:成島出 出演者:役所広司(宮沢政次郎)、菅田将暉(宮沢賢治)、森七菜(宮沢トシ)、豊田裕大(宮沢清六)、坂井真紀(宮沢イチ)、田中泯(宮沢喜助)、池谷のぶえ、水澤紳吾、益岡徹、ほか

映画「銀河鉄道の父」解説

この解説記事には映画「銀河鉄道の父」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。

1896年(明治29年)9月。岩手県花巻の質屋の息子・宮沢政次郎は妻・イチが長男を出産したとの方を受け、汽車に乗って急いで花巻に戻りました。赤ん坊は政次郎の父・喜助によって「賢治」と名付けられました。

やがて6歳になった賢治は赤痢を患い入院することになりました。政次郎は自ら看病すると言い出し、店を喜助に任せると病院に泊まり込んで付きっきりで賢治の面倒を見ました。その甲斐あって賢治は回復して退院しましたが、今度は政次郎が腸カタルで入院することになってしまい、それからというもの固形物すら食べられない体になってしまいました。

時は流れ、賢治は中学校に進学したいと言い出しました。喜助は質屋に学問はいらないと反対しましたが、政次郎はこれからの時代は文明開化だからと進学に賛成しました。賢治は盛岡中学校に進学しました。

1914年(大正3年)3月。中学校を卒業した賢治は故郷・花巻に戻りました。政次郎は明日から質屋として働けと賢治に言いましたが、質屋を継ぎたくない賢治は質屋は農民から搾取していると反発しました。政次郎は質屋は農民に金を貸してくれない銀行の代わりに金を貸して助けているのだと諭し、賢治は質屋の店番をすることになりましたが、狡猾な客に騙されそうになり、政次郎は賢治には商才はないのかと思いました。

賢治は妹のトシとアンデルセンの童話を読んでいました。トシは賢治にも文才があると見込んでおり、物語を書いてみたらと勧めましたが、賢治は自分には才能はないと断りました。

賢治は高等学校に進学したいと政次郎に願い出ました。政次郎は賢治の中学校での成績があまり良くなかったことを理由に渋りましたが、トシは賢治を進学させて卒業させたら質屋を継がせればいいのではないかと助言しました。

かねてから農民を助けたいと願っていた賢治は盛岡高等農林学校に進学しました。一方のトシは高等女学校を卒業し、東京の日本女子大学校に進学しました。夏休みを利用して帰省した賢治は人造の宝石を売って金を稼ぎたいと言い出して政次郎を呆れさせましたが、イチは賢治は政次郎に褒めてもらいたいのではないかと思っていました。

冬になり、トシが東京から帰省してきました。喜助は認知症が悪化しており、程なくしてこの世を去りました。この頃から賢治は自室に閉じこもるようになり、念仏を唱えては泣くという日々を過ごすようになりました。

そんなある日、賢治は政次郎に学校を辞めたいと言い出しました。宮沢家は代々浄土真宗でしたが、賢治は日蓮宗への改宗を望んでいました。それからというもの、賢治は政次郎の猛反対を押し切って日蓮宗にのめり込むようになり、やがて独断で日蓮宗系の宗教団体・国柱会に入信しました。

国柱会に身を寄せていた賢治のもとに、実家からトシが病に罹ったのですぐ帰れとの電報が届きました。賢治はすぐさま原稿用紙を買い、トシのための童話を書き始めました。

実家に戻った賢治は弟・清六や政次郎に出迎えられました。トシは結核に罹っており、祖父の別邸で療養していました。政次郎は賢治が書き上げた「風の又三郎」をトシに読み聞かせ、トシは涙を流しながら喜びました。

賢治はトシを喜ばせたい一心でひたすら童話を書き続けましたが、トシの病状は悪化していきました。トシはもし生まれ変わったら強い体で他人の幸せのために生きたいと言い、政次郎はトシは自慢の娘だと褒めました。やがてトシは実家へと戻り、賢治に看取られながら息を引き取りました。

トシの葬儀が営まれ、賢治は法華経の題目を唱えながら泣き崩れました。政次郎は賢治の書いた童話がトシにとっての希望だったことを告げ、賢治の言葉でトシを成仏させてくれと言うと、自分がトシに代わって一番の読者になるからこれからも物語を書き続けるよう諭しました。

賢治はトシへの想いを綴った詩集「春の修羅」を書き上げ、続いて短編集「注文の多い料理店」を自費出版で世に出しました。しかし、賢治の作品は全く売れず、本屋に大量に売れ残っていたため、それを見た政次郎は金を出して賢治の作品を買占めました。

政次郎は賢治にまた書けばいいと励まし、賢治は実家を出てトシの思い出が詰まった祖父の別邸で生活しながら創作活動を続けたいと言い出しました。

それから3年後の1928年(昭和3年)、賢治は農業に精を出し、私塾「羅須地人協会」を立ち上げて地元農民に農業についての勉強会を行う傍らで創作活動を続けていました。政次郎は質屋をたたみ、店は清六が受け継いで鉄材を取り扱う「宮沢商会」が創業しました。賢治は自分は本当は父のようになりたかったけどなれず、代わりに物語を生み出したと言い、政次郎は賢治の物語を称えました。

この頃から賢治は体調を崩すようになっていました。ある日、政次郎は賢治が吐血していたことに気付き、病院に連れていきましたが、賢治はトシと同じく結核を患っていました。政次郎は養生すればきっと治るから賢治の物語を自分に聞かせ続けてくれと励ましました。賢治は「雨ニモマケズ」の詩を書き上げました。

1933年(昭和8年)8月。賢治の病状は悪化の一途を辿っていました。そんな時、「羅須地人協会」で学んだ農民が肥料について相談したいと賢治のもとを訪れ、賢治は病の身を押して面会すると助言を送りました。農民が帰った直後、賢治は倒れました。

賢治は危篤状態に陥り、枕元には政次郎、イチ、清六が集まりました。賢治は清六にこれまで書き溜めた原稿を世に出してほしいと頼みました。イチは汗をかいた賢治の体を拭き、賢治は感謝の言葉を述べました。そして政次郎は「雨ニモマケズ」の詩を朗読して賢治の文才を讃え、賢治はとうとう政次郎に褒められたことを喜び、感謝しながら息を引き取りました。

賢治の死から2年後の1935年(昭和10年)、「宮沢賢治全集」が刊行されました。政次郎は「銀河鉄道の夜」を朗読しました。政次郎は列車の客席に賢治とトシが一緒に座って本を読んでいる様を目の当たりにし、どこへ行くのかと尋ねると賢治は「どこまでも行くのです」と答えました。政次郎は「ありがとう。本当にありがとう・・・」と感謝の意を述べました。

以上、映画「銀河鉄道の父」のあらすじと結末でした。

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